2016/11/06

基本自分中心のコスパでしか物事を考えていない

基本自分中心でしか物事を考えていないし、たいていの判断の基準はコストパフォーマンスだ。

まず「コスパ」って単語の認識を合わせないと話が伝わらないと思う。

「コスパ」って言うと金銭面でしか計算しない人がいるけど、そうじゃない。「コスト」にはお金の他にも、時間とか、手間とか、精神的負担とかがある。「パフォーマンス」にはお金とかどれくらい腹が膨れたかとかの物量的なもの以外にも、幸福感とか質的なものがあるよね。

むしろ直接の金銭面しか見ない人はコスパの演算がまったくできてない。

アルバイト先を選ぶならそりゃ時給が高いほうがいいけど、職場までの移動にかかる時間を時給換算して考慮しないといけないよね。遠くて時給が高いところより、近くて時給が安いところのほうがパフォーマンスがいいかもしれない。満員電車に乗りたくないとか、苦手な業務内容だからものすごく疲れそうとか、タバコ嫌いだから禁煙のとこがええねんとか、そういう面まで含めないとそれはコスパの演算じゃない。

たとえば僕は野菜がすごく好きだから、値段が少し高くなってもマクドナルドよりサブウェイのほうが明らかにコスパがいい。野菜ぜんぶ多めにしてもらうの大事。

たとえば「自分で壁を塗装すると安くリフォームできるよ!」みたいな話はよくあるけど、かけるコストがお金から時間に変わっただけ。僕は手先の器用さにあまり自信がなくて、塗るのミスってやり直す事案が高確率で発生するし、「失敗しそうでイヤだなぁ」っていう心配をしなくてよくなる精神安定的コストを考えると明らかにプロに頼んだほうがコスパがいい。

家電量販店のスマフォの保護フィルム貼り代行サービスも毎回頼んでる。失敗して買い直したり、貼るのうまくなる練習をするより明らかにコスパがいい。

こんな感じで、コスパを考えると、コスパを意識していない人と比べてむしろ多くの金銭を費やす結果になることもある。単純な値段の問題じゃなくて、かけたコストに対してのパフォーマンスの比率を見るのがコスパ。「コスト」も「パフォーマンス」も、自身がすることと自身に返ってくることの全体を見ないと演算できない。

以上でコスパについてはおわかりいただけたでしょうか。

このコスパという判断基準をベースに話したいのが、僕が自分中心でしか物事を考えていないという話。僕は自分自身にとってのコスパでほぼすべての決定をしている。

たとえばルールを守るのは、守っていたほうがコスパがいいから。

破ることで自分自身が自分自身にかける精神的負荷とか、受け得る制裁とか、そういうコストも含めて演算をして、それでもなおパフォーマンスのほうがいいなら守らないという結論もありうるよね。

自分以外の全人類がゾンビになった地球を車で逃げ回っているとして、そのとき交通規則を守るのと破るのどっちがコスパいいです? って話。

たとえば「優しさ」だってコスパ。僕が誰かになにかをするのは、そうすることがコスパがいいから。

その人になにかをすることによるコストと、それをすることによる「これをしていること自体がうれしい」とか「周りの人が明るい表情のほうが自分の精神衛生上いい」とかっていうパフォーマンスがあって、それを比較した際にパフォーマンスのほうが高いときにだけ僕は「優しい」行動をする。

僕が「この人の手助けができるとうれしい」と感じている人からは結果的に「優しい」という評価を受けることもあるけれど、優しくなんてまったくなくて、ただコスパの演算をしているだけ。

だから行動をして「うれしさ」を感じた時点で僕は得をしていて、自分のためにそうしているわけで、別にお礼もお返しも必要としていない。

「無償の愛」なんて存在しないんだよ。「愛を与えたうれしさ」というリターンを必ず受け取ってるんだから、無償じゃない。

「自分はこんなにいろいろしてやっているのに見返りがない」とか「アイツは感謝が足りない」とか言っている人のことは理解できない。自分の中でなにかを「してやる」こと自体によるうれしさというパフォーマンスがコストを上回らない相手に対して、コストをかけることをやめればいいのにと思う。

この感覚は、なにかのファンをしている人には少し伝わるんじゃないかな。

ファン対象にお礼を言ってほしいわけでも、なにか見返りを与えてほしいわけでもないものね。ファンをすること自体がたのしいからファンでいるわけで、応援すること自体がたのしいから応援するんだものね。

そんな感じで、僕がとにかく自分中心のコスパでしか物事を考えていないという話でした。

ただこの考え方にはひとつ重大な問題があって、仮に僕がルールを破ることのほうがコスパがいい存在になってしまって、仮に周りにひとりとして大切に思える人間がいなくなってしまったら、ルールも守らず他人のことも一切考えない、すべてを破壊し尽くすただのガチクズ野郎になりうるってことだ。